さんぽ日和

翻訳者・翻訳コーディネーターが日々の散歩中に考えたことを書いています。家族のこと、仕事のこと、自分の身の回りで起きたこと、いろいろなことを考えながら歩いています。

「普通」であること

よく、私ってフツーだな、と思う。「フツー」とカタカナで書くと、“取り柄がなくて、つまらない”というようなネガティブな印象が強くなるが、まさにそちらの方。

 

これまで勉強や運動はなんとか頑張って「中の上」か「上の下」。まさかすれ違いざまに二度見されるほどの美貌やスタイルではまったくない。翻訳者としても、スキルも経験もまだまだで、特定の分野に特別に通じているわけでもない。でも何とか仕事を続けていられるので、たぶん、全然ダメということでもなく、普通。

友達と遊んだり、恋愛したりといったことも、当時はもちろん全身全霊をかけてやっていたわけだけど、振り返ってみると一通り普通に経験してきたという感じなんだと思う。

 

普通に生きてこられたというのはとても幸運だというのは分かっているつもりだ。それに、今は好きな仕事をして、家族と幸せに暮らしているのだから、それで十分じゃないかと思うのに、何かの拍子にふと「私ってフツーだな」と感じては落ち込むことがある。めんどくさい。

 

そうやって「フツー」であることをどこかずっとコンプレックスに感じてきたけど、最近になって少しずつ、普通の感覚を持っていることは翻訳をするうえで(たぶん、他の仕事をするうえでも)実はとても有利なのかもしれないとプラスに考えられるようになった。

 

周りにいる人たちの“あるある”に、表面的ではない、実のある共感できるかどうか。それが結局、たくさんの人に響く仕事ができるかどうかを決めるのかもしれない、と。

 

誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりして、「自分だけじゃないんだ」と思えるとものすごくホッとする。ともすれば、「もうちょっと頑張ってみようかな」と力が湧いてくることもある。それがたぶん、共感を呼ぶ、ということなのだろう。

だとしたら、たとえ「フツー」のことであっても、というか、「フツー」であればあるほど、それに真剣に向き合うことで自分の中に生まれる悩みや思いは共感につながるはず。そういうものを大切に積み重ねて、いつか私も誰かにそっと寄り添えるような仕事ができたらと思う。