さんぽ日和

翻訳者・翻訳コーディネーターが日々の散歩中に考えたことを書いています。家族のこと、仕事のこと、自分の身の回りで起きたこと、いろいろなことを考えながら歩いています。

『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』読了!

『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』を読み終わった。

 

月並みな言い方ではあるが、笑って泣いて、最後に元気になれる、またひとつ忘れられない読書体験ができた。

 

この物語、エリーが主人公ではあるけど、お姉ちゃんやお父さん、ソフィーやトーマス、ティム、ジョシュ、アースラとニックまで、登場人物隅から隅まで全員の幸せを願わずにはいられなかった。ひとり一人の人生に勝手に想いを馳せるとき、もう絶対に幸せになってね!って心から思う。

と同時に、この人たちはちゃんと幸せになるだろうと思える十分な期待をもって読み終われたので、今、とてもすがすがしい。

 

思い描いていた未来と現実の違いにとまどい、それぞれに悩みを抱える人たち。

「自分だけ・・・」な気になって、近くにいてくれる家族や友達までも遠ざけてしまう。

 

自分の人生を振り返っても思い当たる節がいくつもある、苦い苦い記憶。

 

そのたびにどーんと凹み、ぐるぐる悩み、周りの人たちに手を引かれて、何とかよろよろと立ち上がる。そんな経験を重ねて、人は少しずつ少しずつ強くなる。今度は、自分が大事な人を支えるために。

たぶん、そうやって生きていくことそのものが幸せということなのだろう。

 

どこかで、「人は自分に選べる選択肢しか選ばない」(趣旨)というようなことを読んだ。

「あのときああすればよかった」と思うことは、たぶん誰にでもある。でも、時が過ぎてしまえば、結局はこうする以外になかった、ということ。

 

『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』の登場人物たちも、それぞれがそれぞれのタイミングで選択をしてきた結果、今はある意味別々の環境にあって、それぞれの現実に向き合っている。

どうかどうか、安心して幸せになってほしい。自分の人生を正しく進んでいるし、何より、お互いの幸せを心から願い合える、ずーっと変わらない関係に支えられているんだから、どうしたって幸せでいられると思うのだ。

 

誰だってわがままに幸せを掴みにいけばいいし、それがどんな形であれ、大事な人の幸せをいつも全力で応援できる自分でいたい。大事な人たちがいつも支えてくれていることもちゃんと忘れずにいよう。

 

この本を読んで、そう思えたことに何より感謝している。

機械翻訳とどう向き合うか

機械翻訳の精度がぐんぐん上がっていて、それにともないポストエディット(PE)なる仕事も生まれていると聞く。まだ自分のところには回ってきていないけど、それも時間の問題だろう。

正直、いち翻訳者として、そろそろきちんと向き合わないといけないのかな・・・・・・という気がしないでもない。

 

ただ、もひとつ正直に言うと、純粋に興味が持てないでいる。

本当は、それでも今のうちにしっかりと向き合い、相手を知った上で拒絶するならそうするべきなのだろうけど、向き合うことすら億劫で、ひたすら見て見ぬふりを決め込んでいる感じ。

 

どんな状況でも翻訳でやっていけるという絶対的な自信なんてかけらもないくせに、この危機感のなさはどこからくるのか。それはたぶん、機械翻訳ありきのこの仕事には未練がないからだろう。そもそも、そういう環境で自分に何ができるのかまったく想像ができない。

 

もし本当に機械翻訳が幅をきかせて、自分で翻訳できる場所がなくなるのなら、そのときは、翻訳ではない、別の道で生きていきたい。

40代に突入して明らかに体力の衰えを感じているというのに、より険しいであろう新たな道に進むのは大変だと思うけど、でもやっぱり、生きている限りはワクワクできる方向に進むことを結局は諦めきれないだろうから。

 

「あまーい!!!」ってツッコミが聞こえてきそうですが、いろいろな可能性を夢見るのは自由だし、これまた楽しい。

今やれている大好きな翻訳の仕事は精一杯続けていきたい。けど、何をしていようとナチュラルにスキップを踏んじゃうような毎日が送れたらそれが最高、と思うのです。

 

 

一冊を待っている

暑さで夏を越せないのではないかと本気で思ったのがついこの前な気がするけど、いまではもうすっかり寒さに嫌気がさしている(我ながら早ぇ)。

季節は正しく、夏から秋へと進み、冬に向かおうとしているだけで、からだが追いつかないだけなのに。ごめんなさい。

 

先日、心待ちにしていた『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』が発売になった。

こちらの本の翻訳者コンペに参加したこともあり、訳者森さんのtwitterをずっと追わせていただいていて、そのおかげで、本ができていく過程をリアルに体感できたことは本当に楽しかったし、ありがたかった。

それにしても、一冊の本を訳す、というとんでもないことに挑んでいる最中に毎日twitterで情報を発信するというのは、想像をはるかに超えて大変なはずで。でも、コンペに参加したものすごい数の方の想いを背負って、のことだったのかもと思うと、感謝しても感謝しきれない。

肝心の本は、バッチリ予約していたはずがちょっとした手違いで手元に届くのが遅れており、いまかいまかと待っているところ。なぜか、やたらそわそわして落ち着かない。でも私が落ち着かなくなる理由は何もないわけで、自分で自分を「なんかウザい」と思うに至っている。あ、これは、完全に不安定な状態ですね。

というわけで、「ちょっと落ち着いて客観的になるため」というまったくもって身勝手な理由でゲリラ的にブログを書いてしまいました。ごめんなさい。

 

『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』は、気軽に楽しく読むのがあるべきかたちかもしれないけど、この一冊ばかりは丁寧に読みたいと思っている。そしたら、私も、エリーみたいにちゃんと前を向いて進んでいこう!

 

 

 

 

ピーマンその後と最近のいろいろ

蒸し暑い、と思ったら6月も下旬にさしかかっている。

 

4月に庭に植えたピーマンは、今朝めでたく初めての収穫を迎えることができた。

私は、二週間に一回の追肥と、支柱立てを手伝ったくらいで、毎日の水やりと記録(写真撮影)は一年生の娘が頑張って続けている。

 

ピーマンを植えたときはピーマンだけだったのに、その後、アサガオ(学校からの指令)とヒマワリ(こどもチャレンジからの指令)も育てることになったのでえらく仕事が増えた。それでも、毎朝「○○○よねー」的な口調で、植物たちに話しかけながら水をあげている様子を見ると、その丁寧さに我が子ながらビックリする。だって、毎日・・・だよ? 

初物は、娘の大好物「ピーマンとじゃこの炒めもの」にしてありがたくいただこう。

 

そんな娘に刺激を受けたのもあって、私は私で、目の前の仕事に向き合いながら、翻訳者としての仕事を増やせないかと、4月以降、自分にしては積極的に動いてみた。

新しいエージェントのトライアルを受けたり、コンテストに応募したり、単発の講座を受けたり。そこからつながる新たな可能性に期待!

 

最近になってそういうのもひととおり落ち着いたので、しばらくは溜まっている本を読むために時間を使おうと思っている。

たしか、越前敏弥さんの『文芸翻訳教室』に、洋書と翻訳書と日本人作家の本をバランスよく読むといい、とあった。そういう点も意識しつつ、今手元にある本の大半は、私の直感で、まさに吸い寄せられるように、ここに来てくれたものばかりなので、そういう本から自分が何をどう感じるのか楽しみだ。

その中で「これぞ!」という本(洋書)に出会ったら、思い切って企画書も書いてみよう。

 

仕事は仕事でしっかりと使命感を持って。でも自分の中に生まれるワクワクは何よりも大事にしていきたい。

いい格好をやめる

正直に告白すると、私はいい格好しいだ。それも筋金入りの。物心ついた頃にはいつも「ちゃんとした子」に見られたいと思っていたし、そのために必死だった。学校でも、家でも、どこでも、いつでも。当然すべて無意識でやっていたことだけど。

こうやって文字にすると、他人ごとのように「かわいそうになあ」と思う。

 

今でもその節はあって、やはり「翻訳者」として見られる場面では認められたいという欲がどうしたって出る。ずっとやっていきたい仕事だもん、そりゃそうだ。

でもそこで、自分の無知とかだらしなさとかが知らないうちに漏れ出てしまうのではないかと要らない気を使ってしまうのが、たぶんやり過ぎなところ。ずっとつま先立ちで歩いている感じで、緊張がハンパないし、その後の疲労もハンパない。

そうやって涙ぐましい頑張りを続けたところで、期待に応えられなくて後で泣くのは自分なのに。何より、相手はすべてお見通しでしょうに、と我に返って思うのだけど。

 

やはり40年近くもそんなことを続けているととても疲れる。疲れて疲れてやってられなくなる。

最近そのフェーズに入った気がして、なかなかいい感じだ。

「こんなにデキるやつです」とばかりに涼しげな顔で背伸びをしているつもりだったけど、実は周りの人にはバレバレだということを悟り、ならばその上でかけてもらえる期待には精一杯応える努力をすればそれでいいと思うようになった。

それに、知らないことを知らないと言える人や、ダメなところもさらけだせる人は、ものすごく魅力的だ。そんなこんなでいろいろ開き直ってしまった。

 

いつもはどこも頑張っていない自分を保ちつつ、ここぞというときに気張ってやるのが本当は一番格好いいのかもしれない。

新生活、始まる

この春、娘が小学校に入学した。ランドセルを背負った、目の前にいるこの子を産んだ日のことを思い返すと、本当に昨年あたりのことのように思えるから「ウソでしょ・・・」と戸惑ってしまう。

 

それでも、あの日から確かに一日一日を積み重ねて今がある。

毎日24時間を自分以外の人間のために費やした日々は、自ら望んだこととは言え、やはり、時にどうしようもなく辛かったし、永遠に続くようにも思えた。「子どもの成長はあっという間だよ」と誰かがかけてくれた言葉にも当時の私はまったく救いを見いだせなかった。

でも今、私は確信を持って言い切れる。子どもの成長は、ほんと、あっという間だ。

 

これからの日々もあっという間に過ぎていくんだろう。あっという間に中学生になり、高校生になり、大人になり、自分で生きていくようになる。

 

だから、ちゃんとこの子から目を離さずにいようと思う。この先、親としてできることなんてたかが知れているけど、せめてそれだけは心に留めておきたい。

 

昨日彼女が突然、「家の庭に畑を作って、ピーマンを育てたい」と言い出した。

 

「なぜ今?」「なぜピーマン?」と疑問は尽きないけど、そう訴える目は真剣そのもの。何が彼女を突き動かしているのか本当はあれこれ聞きたくて仕方ないけど、なんだかそれも躊躇われてしまうほどの迫力だった(だから聞いていない)。

正直、庭を耕して、土や苗を買ってきて・・・と考えると心底やれやれだし、当の本人の熱意だっていつまで続くか分かったものではない。

 

でもまあ、そこまで言うなら、ゼロからやってみようかなという気になっている。

少しでも今の熱意が長続きしてくれたらいい。自分ひとりで畑を作って、ピーマンを育てられるまでに成長する前に、一緒にできる今を大切にしよう。

何かの栽培に成功したためしがない母だけど、一緒に頑張りましょう。

『もうめちゃくちゃ杯』に参加して

あっという間に終わった3月だったけど、私にとっては特別な一ヶ月だった。翻訳者コンペ『もうめちゃくちゃ杯』に参加したからだ(詳しい背景や内容についてはこちら)。

 

このコンペが開催されることは編集担当の伊皿子さんのツイートを追っていたので早い段階で知っていた。冷静に考えれば、私にはまたとないチャンスで、挑戦しない理由などひとつもない。それなのに当初はとにかくビビりまくり、「まだ自分には早い」とか「他の仕事があるから」とかできない理由を並べ立てた。今なら分かる。挑戦した結果、厳しい現実を突きつけられるのがひたすらに怖かったのだ。「いつかやりたい」という思いは長い間大切に大切に奥の方にしまい込んでしまっていたから、表に出したら粉々に砕け散ってしまうんじゃないかと怯えていたのだと思う。

 

それでもやはり、ふと気付くとコンペのことが気になってしまう自分がいた。結局、ゴチャゴチャ・・・・・・と考えて考えて、「やらないと絶対に後悔する」という結論に達した。こういうときのネチネチ感ときたら、ホント、自分がイヤになる。そのときの自分に「当たり前じゃん!」とスパッと言い放ってやりたい。

 

結果、第一次選考と第二次選考を経て、最後の一人には選ばれなかった。

挑戦した以上、目指していたのは当然“最後の一人”だったわけで、残念でならない。

 

でも、挑戦して良かったと心から思っている。課題に取り組んでいる期間、つまり、結果が出るずっと前から、それは感じている。

 

まず、あんなに儚げに思われた「いつか・・・」という思いは、予想以上にたくましく、今も健在だ。

いつかたくさんの人に寄り添える本の翻訳がしたい!

その思いは今や太字にできちゃうほどに堂々とここにある。

 

他にも得られたものはたくさんある。

 

ひとつは経験。一冊の本を訳すというのはとても大変なこと、というのは今までもいろいろな人に教えてもらってきた。でも実際に、限られた期間にその一部を訳してみないと分からなかったことは山ほどある。一冊をまるっと、となるとまた想像を超える世界なのだろうと実感した。

 

もうひとつは今後に向けての課題。現時点で持てるものをすべて出し切ったにもかかわらず、少なからず、最後まで納得のいく訳にたどり着けなかったところがあった。そういう部分はたいてい、実体験が伴っていないために登場人物に憑依しきれないことが原因だったように思う。日ごろから本を読んだり、文章を書いたりということは当たり前だけど、日々の生活で何かを積極的に感じ取ったり、それについて深く考えてみたりすることの積み重ねが今後の課題。

 

最後に、「もうめちゃくちゃ杯」に関して翻訳家の村井理子さんと編集者の伊皿子りり子さんがtwitterやHPを通して出されたコメントのひとつひとつ。詳述は避けますが、どれも深く突き刺さって、大きな大きな力になりました。このままこの道を進んでいいんだと言ってもらえた気がしています。本当にありがとうございました。

 

第二次の課題に取り組んでいるときにふと、「これは、私じゃない誰かの方が上手く翻訳ができるのかもしれない」と弱気になったことがあった。そのときは必死に振り払って課題に集中したつもりだけど、結果が出た今、それが確信に変わりつつある。とても悔しいけど。だからこそ、訳書の刊行を心待ちにしています。

 

「もうめちゃくちゃ杯」。ここがきっとすべてのはじまり。