さんぽ日和

翻訳者・翻訳コーディネーターが日々の散歩中に考えたことを書いています。家族のこと、仕事のこと、自分の身の回りで起きたこと、いろいろなことを考えながら歩いています。

やはり英語はできたほうがいいのか・・・(葛藤)

なぜか分からないけど、自分が子どもを持つずーっと前から「子どもには多くを望まない」と心に決めていた。自分は英語を使って毎日ごきげんに仕事をしているけど、我が子には我が子なりの“別の何か”を見つけてほしいと思ってきた。

英語はできたに越したことはないかもしれない。だけど、今やニュースになるような情報はほぼリアルタイムに翻訳が出るし、機械翻訳の精度だってどんどん高くなっているのだから、たとえできなくたって大して困らないだろう。それに、英語を習得するための時間を“別の何か”に費やす方が良いのでは、と。

 

でも毎年この時期、ノーベル賞受賞者がスピーチしている映像を見ると、せめて英語は、英語のまま聞いて読んで理解できるようになってほしいと思う。(親というものは、こうして欲深くなっていくものなのでしょうねぇ・・・)

特に、サーロー節子さんのスピーチでは、言葉は生きていて、とても大きな力を持っている、ということを実感した。彼女の話す英語であのスピーチを理解した人なら誰だって、感情が揺さぶられたはず。(どこかの国の偉い人とそのお友達を除いては)

そういう、本来なら伝わるはずの見えない力みたいなものをちゃんと感じ取るには、オリジナルの言葉を生身のまま理解する必要がある。話している言葉そのものと同時に、瞬間瞬間の表情や声のトーン、間の取り方、会場の雰囲気まで感じ取らないと、とても大切なものを受け取り損ねてしまうことがあるからだ。

原語が他言語に、話し言葉が書き言葉に(その逆も然り)変換された時点で、伝わるものは全くのイコールではなくなる。これは、翻訳者として、少々悲しい現実ではあるけど、言葉が生きているという何よりの証拠でもある。

 

娘には、いつかどこかで、サーローさんのスピーチの映像を見て、ご本人の声を聞いて、大切なものを感じ取ってほしい。